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環境によって人間は変わる(湯布院の旅館と小豆島のホテルの人々を比べてみて)

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湯布院から小豆島に住居兼職場を移動した。
移動してまずはじめに感じたことは「人の雰囲気が全然違う!」ということ。

”湯布院の小さな旅館で出会った人々”と”小豆島の大きなホテル出会った人々”、全くもってそこにいる”人々”が醸し出す雰囲気が違うのだ。

ここで一つ仮説を立ててみる。

【環境によって人は変わる】

当たり前のような話だが、実際、その環境によってどのような人になるのか?

・「山に囲まれて生きている人」と「海に囲まれて生きている人」
・「狭い人間関係の中で生きている人」と「広い人間関係の中で生きている人」

 この二つの環境に違いによって、人間の精神に及ぼす影響を、僕の独断と偏見で書き記していく。

「山の人」と「海の人」の違い

「山の人」(湯布院に住む人)
・内向的→自分の内側に意識が向きやすい印象。考え事が捗る
・閉鎖的→外から来たものを受け入れない。とりあえず壁を作り、とりあえず拒絶しようとする

「海の人」(小豆島に住む人)
・外向的→他人に興味を持つ印象。自分と会話するよりも、他人と会話することを好む
・開放的→ウェルカム!いいよ!おいでよ!好きにしてって!楽しんでよ!ここ、いいところだからさ!という印象

「狭い人間関係の中で生きている人」と「広い人間関係の中で生きている人」の違い

「狭い人間関係」(小さな旅館で働く人々)
・人に気を使うことが少なくなり、良くも悪くも本音が増える。本音が毒々しいと居心地が悪い。平気で人を傷つけるようなことを言う。仲間内では楽しいのかもしれない。下品。中学校のクラスメイトのような。

「広い人間関係」(大きなホテルで働く人々)
・人への当たり前の気遣いができる。広いがゆえに気をつかう。本音ではなく建前が増える。どう見られているかを気にする。社会のような。

ぼくの湯布院での経験

ここからは、なぜ上記のように感じたのかを、湯布院と小豆島での経験とともに説明していく。

湯布院では部屋数10室少々の小さな旅館で働いていた。
初日、希望に満ち溢れた気持ちでフロントに行き、挨拶すると、
「え、あなた誰ですか?」
みたいな、”よそ者は受け入れるべからず”といった視線をぶつけられた。
その後の旅館に関する一連の説明にしても、なんだかすっごいぞんざいでぶっきらぼうだった(愚痴)

旅館内で初めて出会う人に対して「初めまして!」と爽やかに挨拶しても、誰も目を合わせてくれず、「おお、、」という言葉が返ってくるだけ。
「おや?みんな人見知りなのかな?」と思ってしまうほど。

初日からそんな感じなので、「仕事、大丈夫かな?」と一抹の不安を覚えたが、その不安は的中する。

仕事に関する説明がない。「自分で見て覚えろ」と言わんばかりの、説明不足っぷり。聞いたら聞いたで、「自分で考えればわかるやろ。」と言われ、自分で考えて動いてみたら「わからないなら聞けや!」と言われる始末(愚痴)

まぁ、そんなこんなで、ゆとり世代のぼくにはなんともやりづらい旅館だった。

湯布院の街の人々

また街で働く人々の関しても、旅館の人に通づる「閉鎖的な雰囲気」を感じた。
(旅館の人を起点とした悪印象が輪を広げていく)
観光地なので呼び込みをしている人はいるし、そう言った人はなんだか元気で見ていて清々しいのだが、カフェやお店の中で働いているウェイター・ウェイトレスさんに関しては、なんだか基本的に元気が無くて、さっぱりした印象を受けた。

「ここでも閉鎖的なのか・・・!」

もうここまでくると、自分が働いていた旅館云々ではなく、山々に囲まれた湯布院の特徴として捉えたほうがいいようだ。

神奈川から湯布院に移住した女性のお話

ある瀟洒な雑貨屋さんで、結婚を機に神奈川県・藤沢から湯布院に移住した女性に出会った。旦那さんの地元が湯布院だったのだ。

その女性曰く、湯布院には癖が強い人が多く、お店でも旅館でも、一人や二人は”変な人”がいるそう。
もともとその女性は海に囲まれて育ったので、オープンな気質を持っているのだが、その真逆とも言える湯布院の内向的というか閉鎖的な雰囲気に馴染めずに、だいぶ苦労したそうだ。今でも、「やっぱり藤沢に戻りたい!」と思うことがあるほどに。

その反面、湯布院には他県からの移住者も多く、移住者同士のコミュニティの中に入れれば、話が通じる人も増えて、楽しくなってくるのだそう。

ぼくは結局その楽しさを感じる間もなく湯布院を後にすることになってしまったが、「湯布院の楽しい一面」もみれていれば、また印象も大きく変わったのかもしれない。

湯布院で過ごしてよかったこと

山の中にいると、考え事がとっても捗る。
なんというか、昼と夜の違いのような。
例えば、昼だとさっぱりした考えになるが、夜だとぐるぐるネチネチと考えてしまう。
同じように、山に囲まれた環境のせいか、盆地であるからか、人間関係が悪かったせいか、横浜にいた頃よりも湯布院で過ごした一月半のほうが考え事が増えた。
考え事が増えたというよりも、より自分の内側深くに頭を沈めて、考えることができたように感じる。

これは考え事好きなぼくにとっては少し嬉しいことで、いつもでは考えつかないような深みまで考えが及ぶので、新たな発見が目白押しだった。

この「考えことが捗るかどうか」は、小豆島の海に囲まれた環境でもう少し過ごした上で、比較し、検討しようと思う。

小豆島のホテルの人

続いて、小豆島のホテルでの話。

移動初日。
まずはじめに総務の人からホテルの案内をしてもらったのだが、総務の人が優しい。すれ違う人みんなにぼくのことを紹介してくれて、会う人みんながいい人そう。
笑顔で自己紹介をしてくれて、興味を持ってくれる。

「どこから来たんですか?」
「今いくつなんですか?」
「誰に似てるって言われます?」
「じゃああだ名は”エアK”やね!」

ぼく「なんだろう、この受け入れらている感は・・・!!」

湯布院の人々とのギャップからか、なんだかとっても好印象!

食堂のおばちゃん「ほら、これも食べ。どんどん食べ」
送迎のおじちゃん「今日は雨やね。残念やね」
掃除のおばちゃん「なんでも聞いてね」
パントリーの女の子「緊張してるんですか?笑」
リラクの先輩「小豆島はどうや?笑」

ぼく「みんな・・・いい人すぎる!!」

ぼくが久しぶりに人々の温かみの触れた瞬間だった。
ここで今回の仮説が生まれた。

「なぜこんなにも人の雰囲気が違うのだろうか?」

”たまたま”で済ますには違和感を感じるほどの、人当たりの違い。

「もしかして、山の人と海の人で考え方とか変わるのか?そんなありきたりな違いがこんなにハッキリと現れるのだろうか?」

山と海の違いだけで済ませるには説明のつかない”違い”がそこにはあった。

「山と海の違い以外にも、もしや人間関係の広さが人当たりに関わってくるのか?」

海の人「どれもがいい」

”海の近くに住む人はおおらか”という話を聞く。

だから沖縄の人は時間を守らないのだと。
だから沖縄の人は昼間っからお酒を飲むのだと。
だから沖縄の人はあまり働かないのだと。

これは沖縄に限らず、あらゆる島人、海の近くに住む人に言えることなのかもしれない。

海はその悩みや考え事を大きな力で洗い流してくれる。
山では”内に内に”と向いていた意識が、海では外側にどんどん流れていくようなイメージ。
そう、海を眺めていると、たいていのことは”どうでも”よくなる。いや、”どれでも”よくなるのだ。

確かに、物書きや芸術家は自室や山にこもって、ひたすら自分の内面と向き合いながら創作活動を続けているイメージがある。
海では良くも悪くも、考え事が少なくなる。どれでもいいのだから、考えても無駄なのだ。

海は考え事が多くて困っている人、頭をリセットしたい人にはうってつけの場所なのかもしれないが、自分の内面と深く向き合うことが大好きなぼくにとっては、”どれでもいいか”という答えに帰結することが、少し怖い。

広い人間関係の中で生きる人「周りとうまくやろう」

狭い人間関係の中で生きていると、別に誰にどう思われようと、そう気を使わなくなる。お互いのことをよく知っているので、相手からどう思われようと、特に大きな問題に発展しないのだ。

だが広い人間関係の中で生きているとそうもいかない。
一人の人への悪印象が周りの多くの人へと伝わり、「あの人、なんか絡みづらいよね」というふうになり、孤立してしまうからだ。
狭い人間関係でも孤立しても別になんてことないが、広い人間関係の中で孤立すると、辛い。

例えば学校で、一人の同級生から嫌われてもなんてことないが、全校生徒に嫌われると死にたくなる。
だから、仲間内では素の自分を出しやすいが、全校生徒の前で何か話すとなると、緊張してしまう。

これまでは、「なるべく素の自分で生きていけたら、楽だろうな」と思っていたが、素の自分になることで他人への配慮が欠如し、下品で下衆な発言をするようになるのなら、「素の自分が出せなくても周りへの配慮を忘れない素晴らしい人に見られた方がいいのではないか」と思うようになった。

時には作り笑顔も必要だし、嘘でも人を気遣う言葉が必要なのだと思う。
そして、広い人間関係の中で生きていると、自然とそうせざるおえないのだ。

ぼくは自分が素でいられるよりも、たとえ取り繕ってでも、周りの人に心地よく過ごしてほしい。
周りの人々の居心地よさが、そのままぼくの居心地よさにつながるのだから。